食べられないので点滴をお願いします
医師として仕事をしていると、
「食べられないので点滴をお願いします」
というリクエストをよく頂く。
我が国には医療機関で、治療行為の象徴として気軽に点滴を提供してきた歴史があり、これが現在も続く点滴信仰の素地であると思われる。
もちろん、点滴が本当の意味で必要となる状況はある。
下痢や嘔吐、熱中症、つわりなど、疾病が原因で多くの体液を失った場合。
あるいは、水分の摂取が一時的にできない場合。
いずれも、その原因となった障害が取り除かれさえすれば、自力での回復が可能であることを前提としていると言える。
一方、超高齢者を対象とする在宅医療の現場では、
老衰によって、あるいはそれを背景に軽微なストレスが加わって、徐々に喫食量が減り、ついには食べられなくなる、ということが多く経験される。
老衰は誰しもに訪れる自然な退行性変化であり、疾病とは一線を画する。
疾病の多くは治療が可能であるが、老衰であると判断したならばこれは治療を求めるのではなく、受け容れねばならない。
疾病と障害(老衰を含む)。
この区別ができないと、どんなご高齢の方に対してもあらゆる検査をし、あらゆる薬剤を用いて、最期の瞬間まで医療を提供し続けるという過剰医療のジレンマに陥る。
点滴もその一環であるといえる。
点滴は身体を回復させる魔法の水であるかのごとく思っておられる方が多い。
しかし実際には点滴の内容はほぼ塩水である。
また消化管を経ず直接血管に投与するというドラスティックなことをしているため、本来生体に備わっている調節機能が働かない。
結果として、体表面の浮腫や排痰量の増加ばかりが目立つようになってしまうことも多い。
また、脱水は悪いことばかりではなく、脳内でβ-エンドルフィン分泌を介して苦痛緩和につながるとされているが、安易な点滴はこれを妨げてしまう。
結果として、却って安楽にはならないことが多い。
弱りゆく肉親に対しなにかできることはないか?
「せめて点滴でも」、という気持ちは当然である。
しかし、常に最優先で考えるべきは、本人の安楽や尊厳が保たれているか?
である。
人生の最終末段階において、点滴をはじめとした医療を提供し続けることが真にこれに適うものなのか否か、よく考えて行わねばならない。