人生とはnarrativeそのものである
オリンピックでメダルを獲得する選手が出る度、いかにしてメダルを獲得するに至ったか、それを支えた人の思い、克服した困難、などの報道がかまびすしい。選手本人にしたら「そんなきれいなもんじゃないよ」(笑)と、きっとこそばゆい思いに違いない。
しかしそういった報道に接するにつけ、返す返すも人は物語(narrative)を求めているんだなと思う。
メダルを獲れたのはひとえに死にものぐるいで頑張ったからに違いないが、それでは人は満足しない。
頑張った、支えた、克服した、そうした物語全体をひっくるめて、そこに感動を求めようとする。
これは人の自然な心の働きなんだろう。
在宅医療の経験を重ねるにつけ、病気や健康に関してもこれは同じだと実感する。
すなわち、一般の方々の疾病解釈は驚くほどにnarrative basedである。
医学部の教育では全く教わらなかった概念であるが、人生とはそもそもnarrativeそのものであり、疾病を「炎症」や「腫瘍性増殖」などで解釈しようとする我々の習性は、これに棹さすものである。
「あそこのマッサージさんは癌も治したことがある」という話は、その方のnarrativeの一部である。
経験を重ねれば重ねるほど、narrativeに棹ささず、脇役としてつかず離れず伴走していくのが、我々医療従事者の正しいあり方ではないかと感じる。
これがすなわち、在宅医療の目指すところであろう。
ちなみにstoryは始点と終点が決まっていて話の向かう方向性も決まっている一方、narrativeには始点も終点も方向性もなく、偶然性や意外性を含有している。
(2018年2月15日Facebook記事からの転載)